目下ヒダリ向き

毎日の事、仕事の事、いろいろ書きたい

介護職と気持ちと心意気

今日は雨です。どうも、寒さを理由にコタツから出られないヒダリです。

 

文字を打ちたいけども特に思い当たるネタもなく、何となくやる気が出ない。雨の日だったり気圧だったり、そんな日は何をしてもダメで、そもそもとにかくやる気が出ないのでどうする事も出来ない。間が悪い事に、今私が住んでいる部屋は雨が降るとテレビが映らない。管理会社に連絡をしたものの、「業者に伝えておきますね」と言われたきり何の返事もないままである。別件で連絡した時もこちらから連絡するまで特に返事はなかったので、きっと件の業者さんは遠い海の向こうにあるのだろう。ロシアあたりとか。

雨だけど外出の予定はあるので、待ち合わせの時間までぽちぽちと取り止めのない事を書いてみようと思う。雨だけど。

 

先日から、うちのもう一人が風邪気味だとぐったりしている。

喉が痛いと始まり、熱はないけど体のだるけも凄いらしい。顔が死んでる…朝イチで思わずつぶやいた。死にそうな顔で「きょうはやすむ」と唸ったかと思えば、同じ顔で「やっぱり行く」と言い出して、思わず行くの!?と返した。そんな調子でよたよた仕事へ行く、止めても休みを勧めてもよたよた出て行く。日頃あれやこれやと自由人であるうちのもう一人だが、ズル休みだとか筋の通らないいい加減な事は嫌いなタイプ。偉い。偉いぞ。でもちょっとずれてるぞ。

とりあえずそんな調子なので薬をいくつか買い足しておいたのだが、ここからまた一悶着。過去に買っておいた別の風邪薬を引っ張り出して、顆粒の葛根湯と一緒に飲もうとする。反射的に取り上げつつ、でゅくし!!と額を小突いても、イマイチ良く分かっていない様子だった。

「え?え?何で、葛根湯だよ?ルルと一緒に飲m」

「あかん、薬を一緒に飲んじゃいかん、成分が被る」

「え、じゃあもっと効くんじゃn」

こんこんと説明しても、その時は理解しきらぬまま、結局一緒に飲みよった。後に聞いたら、葛根湯とは栄養剤的なものの事だと思っていたらしい。そもそも漢方は完全無害だと思っていたようで、しつこく説明したらそれ以来複数飲むのをやめた。

 

どこかで見た光景だなぁと思ったら、何の事はない、認知症のお年寄りがよくやるあれだ。薬の危険性を説明した所で把握もできず、薬の管理が出来ない。勝手に何錠も飲んでしまったり、出された薬を勝手に辞めたりトイレに流したり、口へ入れたのを確認しても、上手い事舌の裏に隠して後から捨ててしまう人もいる。

あれを常々不思議に思っていた。何故そこまで薬を嫌がるのだろう。いつも本人に聞いてみるのだが、これまで一度も的を射たような返事をもらった事がない。こういった理解しがたい事を推測してみるのが好きだ。答えを決めつけるのではなく、推測して、自分なりに考えてみると、それまで見えなかったものが見える事もある。それがぴったりはまると、思わぬところで利用者さんからの信頼を得る事が出来たりもする。

その瞬間がとても楽しい。

人間とても難しいもので、仲良くなろうとするのはとても良い事ではあるが、大事なのは相手の顔を見る事だと思う。相手を良く知りもしないうちから、一方的に距離を詰めようとぐいぐい行くと、気まぐれにプイとそっぽうを向かれてしまったり。まずは呼びかける時に名前を一緒に呼ぶところから始める。関係性を作るのに、飛び級というものはないのだ。

そうは思ったところで、薬を嫌がる答えについては誠意模索中のままです。うーん。

 

昔の職場にいたお年寄りで、まぁよくある話ではあるのだが、何度でも車いすから立ち上がり、自分でトイレへ行こうとするお婆ちゃんがいた。歩行も危ういからと車いすを強制され、立ち上がろうとする度に、ちょっぴり口が過ぎるオバサマ職員にガミガミ怒られ、しょんぼりしながら車いすへ戻っていた。今でもよく思い出せる、小さな小さなお婆ちゃんだった。その時まだ新米小娘だった自分は、オバサマに立ち向かう胆力を持ち合わせていなかったのだ。今ならいくらでも何でも言える。そんなオバサマとディスり合いもできよう。

ある日の夜勤中、静まり返った夜中に、トイレ帰りの薄暗い洗面台で聞いてみた。どうして立ち上がっちゃうのかと。危ないよ~と言い添えて。

車いすから小さい手を一生懸命伸ばして、お婆ちゃんは手を洗いながら、「家に戻ったとき誰にも迷惑かけたくない、自分で何でもできるように練習してるんだ」ともにゃもにゃ答えてくれた。うっかり半泣きになった。

利用者や患者はそれぞれ自分の考えがあって、決して何も考えていないわけでもなく、子供と違って『出来ていた頃の自分』があるのだ。短期記憶が危うかろうと幻視があろうと、出来ていた頃の記憶がなくなるわけではない。認知できずに行えないという事はあるけども。そんな『言外の思い』をくみ取って素知らぬ顔でフォローするのも、私達介護職の仕事であるとぼんやり考える。

 

とはいえ、介護士も人間。顔に向かって納豆噴出されたり齧られたり引っ叩かれれば、ナニクソと思う時もある。むしろ7割くらいだ。世間では毎月のように介護での虐待が報じられるが、いつも苦い顔になってしまう。どちらの気持ちも分かるだけに。

分かるというと傲慢かもしれない。出来るはずだと考えてしまうのは本人も家族も一緒だ。特に介護に触れたことのない肉親は、やらなければ動けなくなるという強迫観念じみた思いが強い。引っ張ってでも引っ叩いてでも動かそうとする人も、中にはどうしてもいる。

一方で、介護職員は余裕がない。時間も分刻みでスケジュールを決められ、早く次へ行かなければ業務が成り立たない、扉を開いた先では失禁パレードが繰り広げられ、思わず開いた扉を一旦閉じてみた事もある。もう一度開いても、夢にはならなかった。追剥のようにシーツや更衣をしている間も、容赦なく他の人からのコールがなりまくる。しまいには鳴りもしないコールが耳にこびりつく。時間のゆとりは心のゆとりでもあると思う。人がいないから時間もない。時間もないから些細なイレギュラーも許せない。いつもいつも心がささくれ立って、利用者からは時々「お給金いっぱい貰ってるんでしょ」なんて言われてしまう。ギリギリです。

人を育てる環境、人を充足させる環境を今すぐ作るのは難しい。だからこそ、ちょっとお行儀が悪い職員もとどめざるを得ないのだ。業務が立ち行かなくなれば、介護報酬すら入らなくなるから。現場も、業務が回らなくなるとしんどいから。

人がいないというのなら、何故いないのか、どうして皆が辞めてしまうのかを行政レベルで考えてテコ入れしていかなければ、必須であるはずの福祉という仕事がぐずぐずになってしまうと危ぶんでいる。

介護も、障害も、保育も、外から人を入れれば良いというものではない。即戦力を求めるのも結構だが、その即戦力はいずれ動けなくなってしまう事を忘れてはならない。

 

と、まじめな事もたまには考えてはいる。たまには。

見切り発車でも3000文字近くは打てたからこれで良しとしておこう。準備をしてそろそろ出かけようと思います。大好きな日本酒に会いに。ふふふ。